ストックのビジネス

ずっと、もやもやと感じていたものが、的確な言葉で表現されると、妙にはまり込んでしまって、ちょっと考えこんでいる今日この頃。

My Life Between Silicon Valley and Japan七年を経て実を結んだ「ストックのビジネス」に思う経由、七年を経て実を結んだ「ストックのビジネス」に思う

「フローのビジネス」とは、案件ごと短期的に仕事のけりがつき、その都度報酬が入ってくる、成功や失敗が小刻みに確認できる事業のこと。

「ストックのビジネス」とは、さまざまな努力を一つの大きな穴の中に放り込み続け、いつかその穴の中で化学変化が起き、何かが大きく噴き上がってくるのを待つような事業だ。

本当に、さまざまな努力をひとつの穴の中に放り込み続けるって感じ。もう、その穴の中がどうなってるのかもわからん。ブラックホールの中に、じゃんじゃん放り込んでる。どんだけ放り込んでも、なぁんも返ってこない。どっかで、穴の底が抜けてるんじゃないかと思っちゃうくらい、反応がない。

俺が穴に放り込むんじゃなくても、別に他の人が放り込んだって同じなんじゃない?とも考えるし、放り込んでるものが間違ってるんじゃないか、放り込む穴が間違ってるんじゃないか、もう、いろんなこと考えちゃう。

何かが吹きあがってくる気配があっても、誰かがいらんものを放り込んで、泡が消えちゃったり。。。

ここまで放り込んだんだから、いまさら後に引けないし、いや、人生諦めも肝心だし。

こうなってくると、何かが大きく吹きあがってくるのを楽しみにやってるというよりも、じゃんじゃん穴の中に放り込む作業自体を楽しめなきゃ、やってられねぇ。

学生の間は、学期が終わって、単位がとれたり、成績表が出たり、学年が上がったり、卒業したり。それなりに、確認するステップがいくつかあった。

東京で働いている間も、社内の人事考課があったり、新入社員が定期的に入ってきたり、配置換えがあったり、昇給、昇進があったりして、それなりに、今のステップを確認することができたと思う。

その過程では、事業の成功も失敗も明らかにならず、仕事のけりもつかない。

今の仕事始めてから、ぼんやりと、成功経験がないよなぁって思ってたんですよ。外部から評価されている実感がない。

いや、社員数も増えてるわけだし、売上も伸びてるし、会社の規模も大きくなってるんで、ぜんぜんないわけじゃないんだけど、別に部下が増えるわけでもなく、年がら年中、プログラム書いてるし、セールスやサポートから文句ばっかりいわれていると、なんか実感がない。顧客がすげぇって誉めてくれたことなんて、開発の耳にはめったに入ってこないし。

いつまでたっても、不具合の報告はあるし、機能追加のリクエストはあるし。セールスはこんなんじゃ売れねぇって文句ばっかり言ってくるし、自分の書きたいプログラムの方向からは、さまざまな要因で、すぐにずれていっちゃうし。やってることは年中かわらんし。

プログラミングなんて、完成といえる状態なんて、いつまでたっても訪れるわけがなく、いつでも、未完成で、未完成のまま時代遅れになっていって、新陳代謝されている気がしてくるし。

嵐の中で同じところをぐるぐると回る船に乗っているようだった。なるほど、この精神的重圧に耐えることが「ストックのビジネス」の要諦なのか

重圧に耐えるというか、忍耐というか。。。

僕の穴は、大丈夫なんだろうか。。。こんなことやってて大丈夫なんだろうか。って不安。単調に穴に放り込む作業でいいんだろうかとか、もっと他のやり方の方がいいんじゃないだろうかと、いらんことばっかり考える。

まぁそんなこと愚痴っててなんも始まらないので、明日から、またじゃんじゃん穴の中に放り込むし、周りの人には、そんなこと考えてるなんて微塵も気がつかせないで、能天気に突き進むんだけどね。

どこまでこの能天気が続くものやら。

穴の中の人ですら、なんとなくへばるときもあるわけで、穴の外の人はもっと胃が痛いんだろうなぁと考えると、ちょっと気が楽になる。

次から次へと情報が生み出され、なんとなく自分の中で整理をつけるための『わかりやすい話』を聞いてなんとなくわかったつもりになりということを繰り返させられる今の社会にあっては、丁寧に物事を考えるという、かつて私達の社会が大切にしてきたものが難しくなってきているのではないかというように私は感じています。

コメント欄にあったこの文章が、別の観点から考えることがあって。

一見、「わかりやすい話」の多くには、実は、何言ってるのかぜんぜんわからないものはたくさんあって、それらをじっくり考えて見極めるのではなく、瞬時に切り分けていく人は世の中にはたくさんいるし、スピード感のある世界では、じっくり考えて答えを出す人よりも、さくさく直感的に答えを見つけ出す人の方が有利になっているんじゃないかと。

じっくり考えるのもひとつの「知の力」ならば、直感的に瞬時に判断するのもひとつの「知の力」じゃないかと。

僕よりも頭のいい人はいっぱいいて、自分がじっくり考えているうちに、その人たちの頭の中では簡単に「わかりやすい話」になっちゃってるならば、完全に出遅れるわけで、逆に僕にとって「わかりやすい話」になった時点で、すでに大衆のものとなるわけだから、他の人より先んじようとするならば、「わかりやすい話」になるまえの、わけのわからん状態で突進する勇気のほうがうらやましかったりする。

本当にさきっちょに立っている人たちは、ぜんぜんわけがわかってなくて、ただ突進しているだけじゃないかと。そのちょっと後ろにいる人たちが、すんげぇ頭がよくて、瞬時に頭の中で「わかりやすい話」を作り出せるわけで、僕なんかは、もっとずーっと後ろの方にいて、そのくせ、前に出ようとするならば、無謀とまでは言わないけど、もうちょっと突進する勇気があったらなぁと思う。

実際やってみると、そんなに勇気もいらないんだろうけどね。その一歩がしんどい。

まぁのんびりいきましょう。

それとは別に、マスメディアから流れている「わかりやすい話」の多くはエンターテイメントであって、事実を伝えるのは、また違ったチャンネルになってるんじゃないかなぁと思う、今日この頃。

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