僕が始めてコンピュータを見たのは、小学校5年生の3月の春休みのことである。1982年3月ですな。
それより前は、工作が好きな子供であり、幼稚園のときは、レゴやらダイヤブロックやらで遊び倒し、小学1年生のときに、学研電子ブロックを買ってもらって、電気回路に興味を持ったり、小学3年生のときに、ラジオのキットを買ってもらい半田付けを覚えたりしている程度の普通のガキでした。
小学6年生になるのを前に、両親が冷蔵庫を新しく購入するとかで、近所のちょっと大き目の
電気屋についていったときのことである。
そこに、当時出始めだった、パソコンが展示してあった。
NEC PC-6001、NEC PC-8001、SHARP MZ-80なんちゃらの3台。
うち、PC-8001とMZ-80なんちゃらはデモプログラムが走っていた。
おらは、そのPC-8001のデモプログラムに目を奪われたのである。
うちの両親は冷蔵庫のコーナーにてけてけ向かっていったが、おらは、「ここにいる。」と言って、飽きもせず、ずーっとそのPC8001のデモを見ていたことを覚えている。デモの内容は、線で書かれていくNECの文字と、画面上を汽車がちまちま動いてくという部分だけ覚えている。
なんでおもしろそうと思ったのかよくわからんが、なぜか妙に興味を引かれた。
その日から、暇を見つけてはその電気屋に通った。最初はじーっと眺めているだけ。今思えばかなり奇妙な子供である。数日すると電気屋のおっちゃんが、「はじめてのパソコン」とかなんとかいう本を見せてくれて、これをやってみな。と。。。たしか、PC6001を購入するとついてくるマニュアル本だったと思う。
第1章には、キーボードの操作の仕方やら、プログラムの入力の仕方などが書いてあり、1章の終わりに、サンプルプログラムが載っていた。これを打ち込めと。。。
おらは打ち込んだ。まぁ当然、うごかんわな。初めてキーボードに触るわけだし。まさにカルタとり状態。タイプミスは連発。今思えば、当時のBASICインタプリタにありがちな、1行に複数行入ってしまう問題などもあって、まったくもって動かなかった。
丁度そのころ、テレビで、NHK趣味講座「マイコン入門」が始まる。講師は「森口 繁一教授」。
この人、今Webで検索したら、東大の名誉教授じゃないですか。既に故人。早速テキストを買い、毎週見る。再放送も見る。このマイコン入門ではPC8001を教材として使用していた。この講座によりBASIC言語の基礎を学ぶ。
丁度そのころ、「ラジオの製作」という雑誌の付録であった「マイコンBASICマガジン」が創刊。毎月10日発売で、パソコンも持ってないのに、毎月300円で購入。
知識欲は豊富だが購入できる本の量も限られているため、かなり飢えていた模様。
小学生には高価なパソコンは購入できるわけもなく、どーにもこうにもパソコンが欲しい日々を過ごす。
やむなく電気屋に通い、パソコンを持っている友人の家に上がりこみ、パソコンで遊ぶ毎日であった。
ついに、パソコンを手に入れる日が。。。
中学生のとき、1985年12月。NEC PC-6601を買ってもらいました。親にしてみれば、子供に買い与えるには、高いおもちゃです。んでもあんまりにもぎゃーぎゃーうるさかったからでしょう。とうとう親の方がGiveUpしました。
しかしこのパソコン、初期不良だったんです。最初の1ヶ月のうち何週間は修理に出されていました。画面が出ないという症状で。。。
使えるようになると、過去の雑誌をすべてひっぱりだし、過去のうっぷんを晴らすかのように遊ぶ、遊ぶ。
当時のパソコンといえば、ゲームをやるにも、プログラムは自分で入力するのが当たり前。
ゲームをやっている時間よりもプログラムを入力している時間の方が長いくらい。
このとき初めて徹夜でプログラム書いたりしました。
Z80のアセンブラを覚えたのもこの時期です。フロッピーディスクを使い、簡易チャットロボットに挑戦もしてみました。このころはさすがにコンピュータの知識も少なく、エリザ程度のものしか作ることができず。つまらんと思っていました。
高校生になるとさすがにPC6601では時代遅れになってきます。
このころはゲームセンターにはまっていました。メダルゲームの技や、ピンボールの技はこの時期に鍛えられました。
PC6601は、ソフトウエアの勉強からハードウエアの勉強へとシフトしていきます。8255というPIOのちっぷを購入し、外部のモータを駆動したりランプをつけたり消したりして遊ぶようになりました。
丁度この時期、ゲームセンターの親父から、雨ざらしになっていた、ドンキーコングの筐体を譲りうけ、改造。通常のゲーム基板で遊べるようにして、ギャラクシアン、ギャプラス、キングアンドクイーン、アラジンなどなどのゲームを自宅でやっていました。
浪人時代、コンピュータといえばパチンコ、パチスロです。あほなことやって2年浪人しました。
パチンコのコンピュータ部をもらってきて、家で動かして遊んだりもしてましたね。
大学では、情報工学を専攻。丁度その時期、親父が会社から、PC9801 Note NSなんちゃらをもって来ました。仕事用なので一応会社でパスワードやらがかけてあったのですが、ちょいちょいとクラックして勝手に遊んでました。最初はこのパソコンでMS-DOSやらを使って、ゲームやったり宿題やったりしてました。
初めてパソコン通信を経験したのもこのころ。んでも地方のおらとしてはアクセスポイントまでの電話代がどうも気になってしまって。。。。
さすがに白黒液晶ではゲームも画面が流れるし、画面も狭いしってんで、あんまり使わなくなりました。
大学ではSUNを使用。ここの環境は完璧。X端末が学生に解放され勝手に使用することが可能。Internetに接続済。メール、ニュース、FTPなどなどが使い放題でした。もちろん回線に限度がありますんで、あんまり無茶はいけません。Webは当時まだ一般的ではありませんでした。チャットを覚えたのもこのころ。とは言っても、IRCではなくて、普通のtalkコマンドや、phoneコマンドでした。writeコマンドでチャットしたりもしたな。。。
大学3年生を過ぎたあたりから、家に帰らなくなりました。大学でコンピュータいじってたり、遊び歩いてたり。。。。学校ではXでemacs(Nemacs?)でgccでgdbで遊んでました。4年生になると卒業研究にあわせてそれがエスカレート。じぇんじぇん家に帰りません。
丁度その時期、親父の単身赴任が確定しまして、あんまりにも俺が家に帰らないので、母親を気遣って、親父が、コンピュータを用意するから、夜、家にいてくれとのこと。
半額貸し出しの条件でおらにとって初のAT互換機を購入。486DX4で16Mのメモリ、400MのHDに、サウンドブラスタ16、サウンドブラスタCDのセット。#9のビデオカードという、TSUKUMOのショップブランドのマシンです。このマザーボードは、PCIバスとVLIバスの両方がついているという奇妙なマザーでした。そういえば、VLIの1本が、横にあるチップの背が高くてあたってしまって使えないという。。。
ここでWindows3.1を初体験。SoundBlasterの威力とCD_ROMの威力にびっくらこきました。このマシンはWindows3.1とLinux(Slackware)をインストール。Slackwareは学校と環境をそろえるため(といっても、学校はSUNですが。)Windowsは最先端の環境に慣れるために共存でした。BSDも挑戦したんですがやっぱりLinuxの方がインストールが簡単でして。。。
このころ、14.4kボーのモデムを調達。(確かサン電子で発売された、14.4kにしては異様に安いモデム)Niftyに入会しました。とは言っても、あんまりNiftyのフォーラムには参加せず、パッチをダウンロードする程度。基本はメールとニュースでした。
当時持っていた、アマチュア無線の免許を活用して、Linuxとアマチュア無線を接続、無線でTCP/IPをやったりしました。友人の家のLinuxにリモートでログインしたり。無線でニュースを投稿したり、データを流したり。このころから、無線経由でウィルスを頂戴することがぼちぼちと。。。
大学を卒業して就職するとともに上京。丁度ブームになりつつあった、インターネットに飛びついて、RIMネットに加入。自分のWebページを初めて持つ。
というか自分のメールアカウントが欲しかったというのもあるんですがね。
当時会社で最初に使った端末が、まさに端末。COMポートにつながる液晶端末です。なーんもでけへん。メールもUUCPで取ってるからぜんぜん流れてこないし、Newsも流れてこない。TELNETなんてもってのほか。使いにくいったらありゃしない。勝手にemacsをインストールしてtermの設定をいじってて怒られたりとか。。。なんでおこられなあかんねん。emacsくらい動くようにしておけ。
ソフトウエアの会社の実情にがっかりして、家の環境を整えることにせいを出す。
就職して2度目だか3度目のボーナスで、長年使ったDX4をあきらめ、Pentium120を調達。マザーはASUSのP55-T2P4というベストセラー。フルタワーの筐体にDX4の資産をお引越し。Windows95をNT3.51を切り替えて使用。最終的には、Pentium200まで成長し、NT4を使う。
仕事でVisualC++を使用するということから、Windows一色に染まってくる。Linuxは使用する機会無し。
このころ、インターネット電話というか、音声をインターネットで流すことを体験。名古屋東京間で電話の代わりに使用したりしてた。
会社でもらった、資格の報奨金だかなんだか忘れたけど、なんかのボーナスを元手に、ISDNを調達。64kの速度を手に入れる。確か当時、会社の速度が64kだった。Webは使えるようになっていたが、遅くてだめだめ。家でやったほうが楽。会社に速度アップを要請したら、速度アップすることによるメリットと費用の考察についてどーたらこうたら書類を出せとか言われて切れた。
そうこうするうちに、アメリカに転職。アメリカに引っ越す際、過去のパソコンはすべて、妹に譲る。
アメリカに来てしばらくは自分のパソコンは持ってなかった。
会社に専用のパソコンはあるし、ネットワークは普通に使えるし、困ったこともなかったんで。。。
彼女と同居することになって、彼女が持ってきたパソコンをしばらく使っていたが、これもだいぶ古くなっていたので一気に新調。
現在のPentium4-1.7G+WindowsXPに至ります。
てっきりトラ技少年だったと思っていたが、純粋にソフト屋さんだったのね。