オープンソースの本質

誤解していませんか?オープンソースの「ホントのホント」第1回「オープンソースの本質」
を読んだ。先の「こんな上司や社風はイヤだ!」のページの隣にあった記事である。


この記事では、オープンソースの基本的性質は「不特定多数による共同開発」とされている。
僕にとってのオープンソースは、
「学ぶことができる。そして、学んだことを利用できる。そしてその成果を他の人が学べるように準備しておく。」
と定義されます。
あるアプリケーションがとっても便利だとします。
僕はこのアプリケーションについて、学びたいと思うでしょう。
でも、バイナリだけでは学べる内容に限界があります。
ソースコード、そしてそれにまつわるドキュメントが手に入れられれば、学べることは飛躍的に増大します。
学んだことを利用して、そのアプリケーションをもっと良くしようと改良するかもしれません。他のプロジェクトでその学んだことを利用するかもしれません。
その成果を他の人が再び学べるように、準備する(ソースコードを読めるようにして、ドキュメントを残す)ことが、自分が学ぶことのできたことに対する対価です。
これが、僕の中でのオープンソースです。
当時、UNIX用のソフトはすべてソース配布でした。
自分でコンパイルしてアプリケーションを動かしたのです。
そのとき、なぜバイナリ配布でないのかという疑問に対して先輩は、
「悪いコードを忍び込ませても、ソースを読めばわかってしまう。自分が配ったコードには悪いものは入ってないよという、加工食品の成分表みたいなもんだ。」
と教えてくれました。「その成分表が手に入れば学ぶことができるし、自分はもっといいものが作れるようになるかもしれない。自分の都合のいいように修正することもできる。」とも教えてくれました。
学ぼうという意思のある人には、すべて提供されているのが、UNIXの世界でした。
逆に「教えて君」(教えて教えてと人に聞いてばかりいる人)には厳しい世界でした。
厳密なオープンソースの定義とはちょっと違っているかもしれません。
おそらく僕の定義はオープンソースの定義というよりも、GNUの定義に近いものかもしれません。
確かに、オープンソースの世界は社会主義的で、資本主義の世界ではなじみにくい部分もあるかもしれませんし、現行の著作権法で、完全に網羅できるものでもないでしょう。
このあたりは、僕がもっと勉強しなければならない分野です。
ただ、
学ぼうとする人たちにとって、開かれた世界であって欲しい。
行動を起こす人たちにとって、成果を得られる世界であって欲しい。

「オープンソースの本質」への1件のフィードバック

  1. 特許に関しても、同様の側面があるべきであると、僕は考えます。
    特許広報では、どのような特許が申請されているのかを知ることができます。
    これは、後発の人たちがその特許を学ぶことができる、という重要な側面を忘れてはいけないと思います。
    特許を申請した発明者の権利は十分に考慮される必要があります。しかし、発明者に対して、敬意を持って学ぶという姿勢はとても重要だと思っています。
    敬意を持ってというのは、心の問題だけではなくて、金銭的な問題も含めてです。
    先人の苦労に対して敬意を持って、教えを頂く。
    という行為が年功序列につながっていることを否定はしません。
    日本には、敬老の心というものがあります。
    ただ単純に年を取ってるから敬うのではなくて、その経験や知識に対して敬意を払うということが重要である。と考えています。
    無駄な経験や知識に対して、必要以上に敬意や畏怖を抱くことも避けなければなりませんが。。。

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